佐原浩一郎
IAMAS ARTIST FILE #07「ウィデオー/からだと情報」オンラインアーティストトークを通じて、わたしたちは、冒頭で前田真二郎が述べていたような三者の「異なるタイプ」の映像表現を判明に理解すると同時に、おのおのの作家の概念的な布置同士の重なり、あるいは互いの共通項について検討することができる。以下では、作家一人一人がいかなる問いのなかで思考し、そこからどのようにして問題を立てながら作品を具現化しているのかということについて、いくつかの側面から考察し、彼らの創作(composition)の発生的な点への接近を試みる。「ウィデオー(わたしは見る)」という命題において、作家たちは「見る」という一つの出来事に遭遇することになるのだが、おのおのの創作のなかでこの出来事が「わたし」によって所有されてしまうとき、わたしのまなざしには、あたかも他者がわたしの内部から外を眺めているかのような奇妙な様子が浮かびあがる。
木村悟之にとっての問いは「ずれ」のなかにある。木村の作品のなかでは、それは「実際の位置」と「GPSによる測位」との齟齬である。ずれそれ自体は、通常、真理とのかかわりにおいて「誤り(error)」として理解されるが、真理への参照を離れる限りにおいて、それは純粋な「差異(difference)」である。木村の作品の場合、実際の位置とGPSによる測位のいずれかに真理が認められるなら、それらのずれは誤りを形成することになるが、真理を考慮しなければ、誤りに配慮する必要はなくなり、それらのずれは中立的な差異として把握されることになる(1)。
《飛行物体》の資料パートにある縮尺25000分の1の地図には、山林を歩き回ったパフォーマーの軌跡が記入されているが、GPSによる測位のずれによって生成されたこの軌跡をこの縮尺で見るとき、それは、わたしたちの肉眼がその細部を正確に捉えることができないほどに「微々たる」ものである。木村は、そのような人間の視点を、地上のあらゆる因果を説明する神の視点に重ねながら、擬人的な神を想定している。このとき木村は、(1)誤る擬人的な神、(2)人間による技術としてのGPSの誤り、(3)GPSが指し示す数値こそが神の摂理として正しく、人物の実在的な位置のほうが誤りである、というもろもろの解釈の齟齬のなかに自らを投げ込まざるをえず、それゆえ彼自身は、いずれかの解釈に偏っているわけではないように思われる。そしてこのことは、『軌跡映画』のなかでおこなわれていたような「たどった痕跡を現実空間に残す」ということが《飛行物体》のなかでは試みられなかった、という事実によって示唆されていることでもある。真理を前提するということ、とりわけ、イメージと実在性の一致のなかに真理の秩序を設置するということが、ここでは留保されており、その結果、ずれは、例えば実際の位置との誤差と言われる場合のように、何かに媒介されるようなものではなくなる(木村は神話における真理に基づいた因果的な世界観から「ホムツワケ伝承」を解釈しているため、以上のような態度はなおのこと複雑なものとして受け取られるかもしれない)。実在性への介入に対する木村のこのようなためらいのなかにこそ、ずれが真偽関係に還元されてしまうということに対する彼の疑いあるいは彼の進行中の思考といったものが表現されていると言わなければならない。こうしたことから、《飛行物体》において、ずれは何らかの誤りをしるしづけるものとして現れているのではなく、純粋な差異として現れているということが理解される。
ところで、現在の技術の水準において、GPSによる測位と実際の位置とのあいだには、どれだけ小さくても数メートルの誤差が残る。その原因としては、主に衛星から発信される信号へのさまざまな自然的要素の干渉が挙げられる。しかし、技術の進歩によって、もしそうしたことがすべて克服されたとしても、時間や衛星軌道情報の計測の限界は、依然として無限的な細部のはるか手前を漸進するのみであり、三つ以上の信号から得られた諸数値からなる連立方程式の根としての無理数は、つねにわたしたちの認識能力を逸脱したままであるだろう。GPSの誤差がつねに数センチメートル以内に収まるようになるときがくれば、《飛行物体》におけるパフォーマーはまさしく同じ位置にとどまりつづけることになるのかもしれない。しかし、それでもなお、そこにずれは残存し(たとえ数センチメートル以内であっても)、わたしたちは決して真理に到達することはできないように思われる。先に述べたように、《飛行物体》における木村の関心は、ずれを真理との誤差として把握するところにあるのではなく、ずれそれ自体を即自的な差異として把握するところにある。絶対的な静止は起こりえないということをも併せて考えてみるなら、定点という真理それ自体がもはや定立されえないということが理解されるだろう。あるいはむしろ、ずれというものがなければ、わたしたちは、大きさの秩序を考えることができず、わたしたち自身を、わたしたちに付与される大きさであるような身体とともに実在させることができない。ずれがわたしたちに空間や時間を思考させるのであり、その逆ではない。おそらく、実在するこの具体的な世界は真理に由来しているのではない。もろもろのずれが、おのおのに異なる二つ以上の要素の連関を包み込み、それが世界を発生させているということでなければ、世界の多様性は説明されえない(2)。《飛行物体》において、地図上に記された微小の軌跡は、ある一つの宇宙の開闢の場面を描いている。「ホムツワケ伝承」において過去とされていたものは、地上に降ろされた現在の魂がかつて観照していたはずの「イデア」のようなもの、つまり神話に依拠するプラトン的な真理であったが、現代の「ウィデオー」において、木村は真理を退け、因果の系列を断絶させるような力そのものを何らかの過去として把握しようとしている(3)。それゆえこの過去は、既にイデアを完全な忘却の彼岸へと追いやり、さらにはわたしたちを失われた祖国に直面させながら、一種の異邦人にしてしまうことだろう。
萩原健一が手がける《フレット?アニメーション?ワークショップ》において、参加者たちは四つのコマ(画像)からなるアニメーションの制作に取り組む。それぞれの画像のあいだには差異があり、この差異によって、四つの画像が代わる代わる表示されたとき、わたしたちはそこに一つの連続的な動的イメージを認識することができる。しかし、前後の画像に継起的な推移が見いだせない場合、つまり前後の画像が同時に把握されえないようなものである場合、そこに浮かび上がる動的イメージのなかに、連続性は認められえないだろう。このワークショップにおいて参加者たちが思考の水準でおこなっていること、それは差異を把握することである。参加者たちは、このワークショップのために開発された装置を用いて、画像の内容の変化をリアルタイムに反映しつづけるディスプレイを確認しながら、一つの動的なイメージに理想的な連続性を獲得させるために、映し出されているものに手を加えてゆく。彼らは試行錯誤を重ねながら、それら自体としては関係しあうことのない隔てられたおのおのの独立的画像が関係しあうように、互いのあいだに横たわる空虚を差異によって満たそうとし、コマ同士の間隔を極限に向かって収束させようとする。このとき彼らは、予め設定された四つの画像にしたがって動きが構成される(コマに差異がしたがう)ということに直面するのではなく、前提される動きにしたがっておのおのの画像が規定される(差異にコマがしたがう)ということに直面する。このワークショップにおける最も重要な点、それは、アニメーションの仕組みを理解するところにあるのではなく、もろもろの画像のあいだの差異を俯瞰し、動きそれ自体を思考するというところにある(4)。
そのための仕掛けとして、参加者には、フレット?アニメーションのテーマとして単純な動詞が与えられる。テーマが単純であることから、アニメーションの構造(それ自体は動きの構成に対して無力である)は自ずと理解され、問題は、テーマとなっている動詞を表現する動きがどれだけ自然なものとして感じられるように構成されうるか、ということになる。参加者は、「粘土で何かをつくるように」手を動かし、失敗を繰り返しながら、運動それ自体を実践的に習得する。実践するということは、教えられたとおりにするということよりもむしろ自発的に戯れるということである。そのような一種の遊戯を通じて、参加者たちは、動きと呼ばれるものの症候の把握を可能とするような機会に自らを投げ込むことになる。
《TRAIN》において、二つの画面に映し出される人物たちは、既に何かを習得している。あるいは、この作品がより如実に浮かび上がらせているのは、何かを習得したということの忘却である。《フレット?アニメーション?ワークショップ》と《TRAIN》には共通の問いが付きまとっている。つまり、習得とはいかなることであり、それにともなう身体的な表象(動作、および動作中の知覚、感覚など)はどのようなものとして価値づけられるのか、という問いである。作品における人物たちの行為、「フリック入力」は、ネットワークを経由して日本語を伝達する際の、端末における文字の入力方法であり、そのような環境要因(ネットワーク、日本語の伝達、端末、文字の入力、あるいは日本語の音韻体系も含めて)のうえに成立する一つの技術的な制度である。人物たちはフリック入力をおこなっているが、フリック入力それ自体は、今まさにそうしている人物たちには意識されていない。こうしたことは、例えばわたしたちが日本語を話す際、日本語の音韻体系にしたがう口や舌や喉の動きがわたしたちには意識されていないということと類比的であるように思われる。萩原が語る「あるメディアに対して最適化されてゆく身体の振る舞い」は、このような無意識化と切り離して考えることができない。言い換えるなら、それは、異質性の忘却と切り離されうるものではない。つまり、何かを習得する前に自身と対象とのあいだに横たわっていたはずの異質性が、習得後には顧みられなくなってしまう、という事態と切り離されうるものではない(5)。自然のなかにはつねにずれが残存しているということを思い起こすなら、わたしたちは、このような異質性の忘却とともに自らを自然から切り離し、統計学的に設定された人間の感覚可能域のなかに自らを幽閉している、ということが理解されるだろう。train(訓練する)は、いわばtame(飼いならす)への接近である(tameの語源となる語の一つに「家のなかに連れていかれた」を意味するものがある)。思考の速度は、人間の感覚可能域においては捉えられえず、そこで捉えられうるものになるためには、自らを減速させることが必要となる。わたしたちのコミュニケーションが成立している場は、このような減速域のなかに、そしてあらゆる思考の忘却のただなかにある(6)。
本展に出品された堀井哲史の作品において、人物とみなされるフィギュールはさまざまに変形し、質料的な流動性のなかで、つねに自身の境界を曖昧なものにしている。このフィギュールは、自らのうえに配分された無数の点の軌跡を引きずり、あるいは可視化された空気の流れのなかへ自らを溶解させてゆく。あたかも分子的な接触作用に導かれるようにして、フィギュール自体がゆらぎそのものと化してゆくかのように。堀井によるこうした試みは、木村の諸作品におけるずれや信号、萩原の《TRAIN》におけるネットワーク、つまり、両者における、それ自体が不可視であるようなものとしての波についての研究に連ねられるものである。
わたしたちの経験的表象は、潜在的なものとしてのもろもろの波が、わたしたちの内的な力とは無関係に、既成の法則に合致するようにデコードされることによって可能となっている。とはいえ、わたしたちは、そのような飼いならされた表象に、無条件的に身を委ねるわけにはいかないはずである。だからこそ、どのように潜在的なものをデコードするか、ということが問われなければならず、これこそが今回出品された諸作品における堀井の中心的な課題となっている。モーションキャプチャーデータは、一般的には動作の再現のために使用されるものであるが、堀井はこれを「素材として扱う」と述べ、そこにさまざまな操作を反映させている。そのなかには、「モーションキャプチャーデータのジョイント感やつながりを変化させる」というものがあるのだが、このような試みは、系統的な進化とは異なる形態形成を思い描いていたエティエンヌ?ジョフロワ?サンティレールによる後成説を思い起こさせる。それによれば、脊椎動物がある状態に折り曲げられるなら、頭部は骨盤に接近し、各器官は頭足類(イカなど)のように配置されることになるのだという。こうしたことを述べるとき、ジョフロワは、系統発生における慣性的な収束ではなく、一つの有機的な個体における自発的な行為を見て取っている(7)。このような意味において、堀井が提示する人物のもろもろのフィギュールは、わたしたちにとっての自発的な行為に関する新たな可能性を担わされている、と言わなければならない。しかし、一つの有機的な個体において、自発的な行為はいかにして可能となるのか。こうした問いは、堀井においては、「美しさ」についての問いと重ねられているように思われる。
堀井は、木村への質疑のなかで、パフォーマーの現実的な軌跡が示す図形と本質的なものとしての円とのあいだで美しさの基準を宙づりにしている。そして、自身の作品のなかでは、ダンサーによる現実的な運動の軌跡のなかに本質的なものが閃くような場面が抽出されている。木村の作品においては、本質的な円を辿った結果として、歪んだ図形が見いだされ、堀井の作品においては、現実的な運動の結果として、幾何学的な本質的図形が見いだされる。つまり、おのおのの作品において、おのおのにとっての新たなものが発見されているのであり、両者は、この「新たなものの発見」のなかに「美しさ」の存在論的な基準を感じ取っている。ところで、デカルトは、代数学と幾何学との対応(解析幾何学)の発明によって、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」と言うことができた。デカルトはこのとき、代数学の側に置かれた思考によって、幾何学の側に置かれた経験可能なものだけではない、それ以上のもの、つまり幾何学的な「存在」を新たに見いだしている(8)。
デカルトも含め、これらの例のいずれにおいても、問われているのは、二項のうちのいずれが先行しているかということではなく、何が新たに発見され、それを何が新たに発見するのか、ということである。おそらくわたしたちが何かを新たに発見するためには、この法則的な流動性のなかから一旦抜け出し、自身を含むあらゆるものを客観視することができるような俯瞰的な位置に浮上しなければならない。そうすることによってはじめて、わたしたちは因果的な系列の理由を取り押さえることができるようになり、自分自身を根源的な単一性として捉え直すことができるようになる。《Light and Shadow》におけるダンサーの手に置かれた光源、あるいは《Behind the Scenes》におけるコピーとなるダンサーの視線は、まさに既存の主体を離れた新たな主体的フォルムである。しかし、そのような単一性は、当然普遍的なものではありえず、それどころか一つの永続的な主体の何らかの要素ですらないだろう。堀井の作品における単純な幾何学図形の発見の例に戻るなら、観察者である堀井は、ある幾何学図形のもろもろのかすかな気配を感じ取り、それらを一つの和音のように統合することによって、円を認識することになる。しかしそれと同時に、この円は、堀井がそれを捉えたときに占めていた俯瞰的な位置とともに既に過ぎ去ってしまっており、今やそこに存在しているのは円の幻影のようなものでしかない。とはいえ、こうした消失は、決してわたしたちを失望させるものではない。それは、何かの気配を感じ、その何かが明らかになりつつあるときの当初の喜びの結果として得られた消失である。新たな主体的フォルムはこのような消失とともにあり、それは一つの生の力として、わたしたちに従属を強いる絶対的な起源の残存を許容せず、わたしたちをさらに遠くまで押し進めてやむことがない(9)。
本展において、その主題となっている「ウィデオー(わたしは見る)」は、創作的な三つの変化性にしたがって提示されている。木村にとって、ウィデオーとは、自身が語っているように、衛星からの位置情報を介して目に映る世界を捉え直すことである。この位置情報は、それ自体がずれの表現であるようなパブリックな対象であり、作品のなかでパフォーマーは、文字通り差異に身を委ねながら、差異そのものと化した〈わたし〉として、世界を〈見る〉ことになる。《飛行物体》において、パフォーマーは、あたかもストレンジ?アトラクターにおいて他の軌道から発散する一つの軌道を辿るかのように(このとき「他の軌道」は「実際の位置」のメタファーとなるだろう)、果てしのない迂回のなかに置かれ、道なき道をさまよい続ける(10)。萩原は、〈見る〉という行為を、自発的な側面と従属的な側面という二重性のなかに置いている。自発的な行為としての〈見る〉は、何らかのものの習得に至るような一種の生気的なもの(the animated)であり、従属的な行為としての〈見る〉は、反対に、習得の過程の外部にある非生気的なもの(the disanimated)であると言えるだろう。《TRAIN》において、〈わたし〉としての鑑賞者は、そのような従属的なものを、今度は自身の側から自発的に見ることができるかどうか、ということが試されている。ただし、そこに映し出されている人物が、自身の行為のなかに、その従属性を上回るような自発性を忍ばせているかもしれない、ということにつねにわたしたちは留意しなければならない。堀井にとって、ウィデオーは、美しさの把握と切り離しては、もはや考えられえないものである。確かに彼は、作品のなかで美しさを構成するものを明示的に指し示しているのだが、彼にとってより重要なのは、美しさそれ自体というよりも、むしろ美しさの症候を読解するための思考の潜在的な持続である。〈わたし〉は、美しさのもろもろの気配を感じ取りながら、それらを統合する時間のなかで、一つの俯瞰の位置へ自らを移行させる。このようにして、〈わたし〉は絶対的なフォルムとして新たに立ち上げられ、そこから潜在的なものの一群を眺望することによって、何らかのもの=xを把握することになるだろう。
おのおのの作品において、本展のタイトルに含まれる残りの主題「からだと情報」もまた、「ウィデオー」と同時的に見いだされなければならない。通常、〈情報〉としてのモーションキャプチャーデータは受肉を想定して使用されるのだが、堀井の作品においては、モーションキャプチャーデータそれ自体が〈からだ〉と見なされ、その軌跡のほうが〈情報〉として捉えられることになる。〈からだ〉は〈情報〉となって、無限の流動性のなかへ溶け出していくのだが、美しさを起点として両者の関係は反転し、今度は錯綜する〈情報〉のなかから新たに〈からだ〉が浮かび上がってくる。萩原が開催する《フレット?アニメーション?ワークショップ》において、体験者らは、試行錯誤のなかでもろもろの〈情報〉を自らにもたらし、そこでウィデオーが行使されることによって、彼らは動きを捉え、さらにその動きを現実化している「動体」を経験することになる。また、フリック入力をおこなう同期する二つの〈からだ〉は、法則的な慣性的〈情報〉としてわたしたちに差し出され、それがわたしたちにウィデオーを強いる。木村の作品においては、衛星からの諸信号がデコードされ、そこから緯度と経度が算出され、それが〈情報〉としてパフォーマーに届けられる。この〈情報〉は根源的な齟齬を包含しており、それが世界の〈からだ〉としての森羅万象を発生させているということは、既にわたしたちが見たとおりである。パフォーマーの〈からだ〉によって描かれる軌跡は、ずれのなかで自らの定点を喪失したパフォーマーが、あらゆる脈絡を逃れた上空20000キロメートルの位置に自身の新たなまなざしとしての場を捉え、そこを占める、そのための条件となるようなもろもろの〈情報〉である。「情報」、「ウィデオー」、そして「からだ」は、このような統一的俯瞰によってまとめあげられ、この統一性のなかに、潜在性と現働性との連絡を可能とするような一つの体系が見いだされることになる(11)。
三者はみな、かつての優れた芸術家と同様のやり方で創作しているのではなく、現代の状況のなかで、まったく新しい「ウィデオー」を試みている。彼らが新たな俯瞰的観点を要求するのは、かつて、例えば2000年代に世界を基礎づけていたものによっては、もはやこの2020年代の世界は基礎づけられえなくなっているからであり、そのような位置によってしか、この時代の新たなもろもろの座標はうまく捉えられえないからである。彼らは、何らかのものの気配を感じ取るために耳を澄まし、生気的なものと非生気的なものの分水嶺のうえで自らを引き裂きながら、自身のなかにずれを導き入れるのだが、このような操作は、単に自らを上昇させるためになされているというだけではない。最終的に、彼らが期待しているのは、他のあらゆるものから隔絶された絶対的なイメージを手に入れるということである。彼らは、そのようなイメージを獲得することが極めて困難であり、もしそれを獲得することができたとしても、それが非常に小さなものでしかないということをよく知っている。彼らにとって、そうしたものは、たとえ微小であったとしても、獲得されうるだけで十分であり、それどころか、そうしたものは微小でなければ存在することができない。なぜなら、そのような絶対的イメージだけが、あらゆる真理のわずかな偏差のなかに自らをすべり込ませ、そこにとどまることによって、わたしたちの感覚を過去の基準への参照から引き離すことができるからである。このイメージにおいてのみ、わたしたちの感覚と思考は識別不可能なものとなり、宇宙を発生させる諸力が俯瞰的な観点へと開示される。
Bergson, Henri. 2013[1907]. L'évolution créatrice, PUF.
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ドゥルーズ、ジル 2018[1956-1957]「基礎づけるとは何か 1956-1957 ルイ=ル=グラン校講義」國分功一郎、長門裕介、西川耕平編訳『基礎づけるとは何か』pp. 9-182、ちくま学芸文庫。
プラトン 1967[around 370 BCE]『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫。
佐原浩一郎
1976年生まれ。フランス哲学、美学。足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场メディア表現研究科修了。
大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。
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