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「Calculated Imagination IAMASが発信するメディアアート」展 足彩澳门即时盘_现金体育网¥游戏赌场

佐原浩一郎(美学、大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程。IAMAS2012年卒(10期生))

Calculation and Imagination

 

目次

1.Calculation and Imagination

2.クワクボリョウタ《風景と映像》

3.三原聡一郎《 鈴》

4.菅野創+やんツー《形骸化する言語》

5.山城大督《HUMAN EMOTIONS》

6.村山誠《Lathyrus odoratus L. – top view – b》
《Sunflower -ⅰ- iv- bc》 《Botech Composition 1-MV》

7.石塚千晃《Portrait of DAUCUS CAROTA》

 

 

まずはじめに、本展に寄せられた、三輪眞弘および本展企画者の一人である伊村靖子による短い文章(三輪眞弘「IAMAS生誕20周年、Calculated Imagination展に寄せて」、伊村靖子「デザインを主題としたアート」、CALCULATED IMAGINATION IAMASが発信するメディアアート展から、メディアアートの現在形とはいかなるものであるかを探ってみたい。

 

そのなかで伊村は、二十世紀初頭の、工業技術と芸術との「結合」に対する批判的言説と、二十一世紀初頭の、実用的なものと美的なものとが「商業的なものにおいて包摂されているということ」に対する批判的言説とを重ねている。しかし、それぞれの批判を生み出した時代の状況から、二十世紀がそうした結合を拒否するようなかたちで機能主義へ舵を切ったという事実に対して、二十一世紀の今後の展開は、二十世紀的な展開には決して重なりえないだろうという見解を導出している。つまり、二十一世紀におけるそうした批判を触発するような現在の状況のなかに、ひとつの創造的契機としての可能性が見出されており、 「テクノロジーが社会に及ぼす影響に限界を設けるのは、人間の社会的?心理的規範とも言える」と伊村が述べるように、創造的契機とは、そうした規範の盲点、抜け穴、あるいは分岐点のようなものであるだろう。「人間の社会的?心理的規範」と「テクノロジー」とは互いに相関するものであり、前者が後者による社会への影響を限定するのであれば、後者のほうもまた前者の構成要因のひとつとなっている。

 

会期中のトークイベントのなかで、伊村は、日常的にスマートフォンやPCと間断なく接するような現在のメディア環境について言及し、現代の(メディア)アーティストはそこで、制作者であると同時に鑑賞者でもあるということにならざるをえないのではないかと述べている。このことは、芸術家による創造が、ある意味で環境についての観察をその条件としなければならないということを穏健に指し示しており、学術的な「研究」と芸術的な「創造」とが出会うところに作品成立の場があるとする三輪の指摘と、はからずも厳密に適合している。三輪はまた、IAMASが創設以来取り組んできたことに関して以下のように述べている。「人間の『生きる技法』としての新しい『芸術』を『メディアアート』という名のもとに再定義すること」。そのためにはやはり環境の観察をそこに含み入れることが不可欠となる。

 

技術と芸術との分割から開始された機能主義は、それゆえにその後の技術の急速な発展に引き離されることなく、例えばもろもろの人工物は、大型化、高速化、厳密化といった進化を容易に受け入れることになった。こうした変化は、「最新テクノロジーの『魔術』を誇示する」と三輪が述べているような、一九九〇年代のメディアアートが置かれていた状況にまで引き継がれ、この頃には、小型、大型といったサイズによって形容することが困難であるようなスケールが、かつてよりも一般的なものとして人工物の世界に導入されることとなっていた。研究と創造との相互的な肯定を放棄した多くの二十世紀芸術は、いつしかわたしたちの生存にかかわる技法であることをやめ、次第に魔術的な相貌を呈するようになってゆく。しかし、そのスケールが臨界を越え、結果的にわたしたちは間接的なかたちでしかその全貌を把握することができなくなってしまった(建築家のレム?コールハースがこれを「ビッグネス(巨大さ)」として概念化している)。全貌が見通せる程度の「大規模」は、今ではすでに人々の関心を引くものではなくなっているように思われもする。現在の芸術家に賭けられているのは、懐古的にルネサンスあるいはアール?ヌーヴォーをたんに現代において再現するということではなく、巨大さのもとですべてが断片的に現れざるをえないような世界において、今日的な「生きる技法」を改めて定義しなおすということに他ならない。

 

このように解釈することも可能であるような三輪の命題は、例えば「規範に問いを投げかける」、あるいは「あそびの空間が立ち現れる」といった伊村の言葉と響き合うものであるようにも感じられる。実際のところ、メディアアートは、ある意味でわたしたちを取り巻く媒体を告発するようなものとしての媒体の創造、といった側面をますます露わにしており、「あそびの空間」は本展のいたるところに見出される。そしてそこには、わたしたちを文化的に条件付けるもののうちに収束してしまうことのない空間、あるいは説明可能な体系に置かれてしまった時間とは異なるようなある束の間といったものが創出されているということを、わたしたちは思考するとともに体感することになるだろう。

 

社会的な規範は無矛盾であるようなものではなく、そこにいくらでも新たなコードを書き込むことのできるような余白を備えている。あそびによって新たに書き込まれるコードは、既存の規範に合流し、それを強化することもあれば、既存の規範によっては扱われず、それどころかそれを動揺させることもある。本展の名称に用いられている「Calculated」という語は、そうした新たなコードの書き込みに、あるいはそこに至るまでの下準備に対応するものであり、「Imagination」という語は、「あそび」あるいは作品(当然それは作品ではない場合もありうる)に対応している。両者ははっきりと分かれているわけではなく、例えば「Imagination」のほうが「Calculation」に先立つこともあり、「Calculated Imagination」が「Imaginative Calculation」に替わることもありうるだろう。いずれにしても、そこで鑑賞者に課せられているのは、「作品として結実した想像力」の土台としての「観察、研究、下準備」の対象を自らに向けること、あるいは、「意図」による「規範の動揺」を検出することである。以下に各作品についての雑感を付す。

 

クワクボリョウタ《風景と映像》

暗闇の部屋の床の上に様々なものが置かれている。それらのあいだを縫うように張り巡らされたレールの上を、発光する模型列車が、床の上に置かれたものの影を壁面に投影しながらゆっくりと進んでゆく。例えば床の上に置かれた人形に列車(光源)が近づいていくとしよう。ある距離にまで接近すると、人形の影がそれとわかる輪郭を伴って壁面に現れる。列車がさらに近づくにつれて、人形の影は小さくなっていくと同時に、そのコントラストを高めていく。列車と人形とが最も接近する時、影は最も小さく、光と影のコントラストは最もはっきりしている。人形から列車が遠ざかっていくにつれて、人形の影はコントラストを弱めながら大きくなり、やがて大きくなりすぎるとともに薄くなりすぎることによって識別することのできないものとなる。

 

鑑賞者は、四方の壁面で変化し続ける影を見るだけではなく、列車の光が直接照らし出す、あるいはその光の反射光によって間接的に照らし出される、床の上に置かれたもろもろのものを見ることもできる。クワクボの言葉を借りるならば、車窓の風景を眺めるような「一人称的」な視点と、床の上の全体を俯瞰するような「三人称的」な視点とが鑑賞者に与えられている。

 

一人称的視点において、行為する、あるいは運動するのは影であり、鑑賞者は影が繰り広げる物語を自らの知覚として受容することになるだろう。三人称的視点において、行為するのはレールの上を徐行する模型列車であり、鑑賞者はその位置や方向などを一般的な規範に従って認識することになるだろう。このとき鑑賞者は、一人称的視点と三人称的視点とをそれぞれ独立したままにしておくことを拒否し、両者を互いに関係させ、両者の区別を曖昧なものにしてしまう。三人称的視点は、もはや一人称的視点における影の物理的な因果関係を説明するためのものとして、一人称的視点に従属させられており、一人称的視点もまた、風景としての映像にとっての根拠として、三人称的視点を必要としている。

 

静的なレヴェルでは、影の正体が問題とされ(光を遮っているものは「何」か)、動的なレヴェルでは、影の変化のメカニズムが問題とされるだろう(列車とものの位置関係は「どのように」なっているのか)。しかし、このような認識に依拠するだけでは、わたしたちは一人称が三人称に従属させられるような抽象的な結果を享受するにとどまり、その結果一人称的視点は排除されてしまうだろう。反対に、ものと列車とが接近しすぎず、離れすぎもしないある範囲の距離にそれぞれが位置するとき、認識は一人称か三人称かのどちらかに従属するということが不可能となり、三人称的視点による説明を許しながらも、一人称的視点が排除されないような場が、つまり、世界に相対しながらも、その世界によってすべてが説明されてしまわないような場が登場することになる(作品に即して言うならば、変化に伴う建築物との類似や影のサイズなどが、鑑賞者にそうした場の登場の契機をもたらす)。この場は、ものと列車が最も接近する距離において生じるのではなく、最も接近する距離に到達しつつあるという運動とともに、あるいは最も接近する距離から徐々に遠ざかっていくような運動とともに生じる。

 

さて、こうした叙述は本作にだけではなく、クワクボの過去作品である《10番目の感傷(点?線?面)》や《LOST》シリーズにも該当するのだが、本作は模型列車の数においてそれらと異なっている(過去作品では一台であるのに対し、本作では二台の列車が走っている)。つまり、レール上を移動する光源が二つになっている。ここで再びクワクボの発言に依拠するならば、一人称と三人称とが可能とされた過去作品に対して、本作では新たに「二人称的」な視点が現れている。

 

例えば鑑賞者は、ひとつの光源による影を見ていると(三人称的視点を捉えている一人称的視点)、別の光源による影が紛れ込み、それまで見ていた影に重なってくるという現象を頻繁に知覚するだろう。紛れ込み、重なってくる影は、鑑賞者の三人称的視点を振り切り、そこから自由になっている。光源Aによる影を「影A」、光源Bによる影を「影B」とし、影Aは鑑賞者の一人称的な視点の表象であると同時に、三人称的な視点から説明されているものであるとするならば、影Bは、一人称的な視点の表象に重なってくるものの、三人称的な視点による身元証明を欠いている。この「重なってくる影」は、一人称的な表象における「説明されないもの」として鑑賞者に現前することになるだろう。これがつまり他者であり、二人称的なものとしての役割を担うものである。

鑑賞者には、その都度任意に列車Aの乗客になったり、列車Bの乗客になったりと、二つの風景をモンタージュしながら、あるいはモンタージュせずに風景を眺めるという自由が与えられている。鑑賞者は、列車Bにとっての他者となったり、反対に列車Aにとっての他者となったりすることができる。しかし、二つの光源が同じひとつのものを同じ壁面に投影するとき、重なり合う(同じひとつのものの)二つの影は、どちらが説明されうるもので、どちらがそうでないものなのかが、たちまちに判別されえないものとなってしまうだろう。例えば、ワイヤー製のダストボックスが同時に投影される場面などがそれに当たり、そこで鑑賞者は、どちらが「わたしの」影であり、どちらが「他者の」影であるかを判別することができない。認識における乱のようなそうした状況は、両者を統合し、いずれをもわたしのイメージであるとするようなヘーゲル的な新たな「わたし」の登場によって間もなく鎮圧されてしまうかもしれない。しかしそれでも限られた時間のあいだ(限られた時間のあいだであるからこそ)、はっきりと異なる二つの観点が統合されずに異なったまま持続し、影を見ているのが「わたし」でもなければ「他者」でもないといった事態が現れたのだということについては疑いようがなく、いくら強調してもし過ぎることはないだろう

 

三原聡一郎《 鈴》

風鈴は、家の内部と家の外部の境界である縁側などに吊るされ、鈴の音によって家の外部の風を家の内部に届ける。あるいは、少なくとも外部の風の存在を内部へ知らせることができる。三原の調査によれば、アジアのいくつかの地域において、小さな鈴は、人間の世界とその外部との境界で、邪悪なものを払うためのものとして用いられていたということである。してみれば、本作において、小さな鈴の鳴る音によってわたしたちに知らされる放射線の存在は、人間の世界の外部に存在する邪悪なものと見なされているということになるだろう。三原は工学者の吉川弘之に従って、「現代の邪悪なもの」は「過去の邪悪なもの」に対してそのあり方を変化させているのだと述べている。ごく簡単に二つを定義するならば、過去の邪悪なものが人間の外から攻撃してくるものであったのに対して、現代の邪悪なものは人間の行為によって引き起こされるもろもろの問題である(例えば、環境問題や食糧問題などがそれにあたる)。現代の邪悪なものは、それ自体が人間の世界の内部に位置しているとはまだ言い切れないところがあるが、それが生み出されるのは内部においてでしかない。もしも小さな鈴が、邪悪なものだけではなく、邪悪なものの発生源を検出する力能を持つならば、その鈴は、家の内部から風を吹かせて自らを鳴らすだろう。

東日本大震災以降、原子力発電をめぐる議論が活発化し、そのことによって大規模な発電環境を生存の必要条件としているということを強く意識することになったと感じているのだと三原は言う。邪悪なものの議論に重ね合わせるならば、邪悪なものを作り出すとされる人間の行為が、この場合、原子力発電所を含む発電環境の構築および維持、管理に該当し、邪悪なものそれ自体は、人間に脅威をもたらすもの、すなわち原子力発電所に、あるいはこの場合特にそれに由来する放射線に該当する。本作において、小さな鈴がわたしたちに知らせる邪悪なものとはそのようなものであり、その鈴を鳴らしているのは、わたしたち自身であるということになるだろう。

 

しかし本作では、会場内のガイガーカウンターが検出しているのはあくまでも人間の行為とは無関係に自然界に存在している放射線であり、決して原子力発電によってもたらされたものではない。それにもかかわらずわたしたちは、作品の隣に掲示された三原自身によるステートメントを目にするとき、そこで単に「放射線センサー」と述べられているにすぎない機械が検出する放射線を「人間の行為」に由来するものであると理解する。このような飛躍は、この作品自身が作り出しているものではないが、作品がこの飛躍を意図的であるにせよそうでないにせよ前提し、それによって本作における物語を可能にしているということは疑いえない事実である。

 

例えば、ガラスのドームが、三原が述べているように「威力のあるものを封じ込めようとする」人間の行為と重ね合わせられたりするのは、まさにそうした飛躍を条件としている。おそらくはステートメントのなかで、「あの出来事」という表現が登場しなかったとしても、「放射線」という一語のみによって、わたしたちは「あの出来事」をすぐに思い浮かべることができるだろうし、もしも時代が二十世紀後半であったならば、わたしたちはまず原爆を思い浮かべることも可能であっただろう。いずれにしても、人間にとって「放射線」という言葉は、すでに飛躍とともに現れなければならないようなものになっているということである。

 

飛躍の後の段階を考えてみたい。ガラスのドームのなかに封じ込められているのは、人間の行為そのものではなく、人間の行為によって「生み出されたもの」である。ガラスのドームそれ自体が、言わば「封じ込める」という人間の行為にあたる。ならば原子力技術によって放射能を作り出すという人間の行為は、いったい本作のどの層に属しているのだろうか。その解を求めようとするとき、わたしたちは問いそれ自体への解体へと向かわざるをえない。なぜならば、原子力技術の使用は、ドームの外に位置しながらもドームの内へと通じており、同時に、ドームの内に位置しながらも新たにドームの外に現れなければならないからである。ここに、時間において循環するわたしたちの行為を見て取ることができる(過去の行為によって放射能は生み出され、現在、それは封じ込められようとしていると同時に再び生み出されようとしている)。善良な行為と邪悪な行為が存在するのではない。ひとつの同じ行為は、邪悪へと傾く側面を有していると同時に、善良なものとしての側面も持っており、些細で善良なひとつの行為でさえ、奥深くに沈み込んでいるような悪と響き合っているのではないだろうか。偽善と偽悪は人間の行為における必然的な作用であるのかもしれない。本作の鑑賞は、わたしたちにそうしたことを読み取る可能性をもたらしている。

 

菅野創+やんツー《形骸化する言語》

ペンを固定している機械が動作し、そのペンで紙の上に文字を書き連ねてゆく。機械は、小気味良いモーターの動作音を存分に鳴り響かせながら、一画一画丁寧にペンを走らせていく。本作における鑑賞者の「現在」はこのようなものである。

 

誰かが文章を書き綴る。その間に、時間の進行に準じて生じる二次元の空間データがペン先から抽出される(この時点ですでに、文字の意味は考慮の対象に入っていない)。こうして収集されたデータを、人工知能がいくつもの大きさの範囲(複数の文字といった大きな範囲から、複数の画〔かく〕といった小さな範囲まで)に従って分割し、分割されたそれぞれの断片に後続するもろもろの別の断片を、その出現頻度に応じて順序付け、データベース化する(文字入力の際の予測入力において同じタイプの分類が行われている)。頻繁に同じ順序で文字が出力されてしまうことを回避するため、それぞれのデータは偏差を伴うかたちで扱われる。こうした作業と、それに基づくデータベースを、人工知能は「過去」というかたちで保持している。

 

このような「過去」に基いて、概ね読むことのできない文字が「現在」において生成される。それは、かたちだけの、実質を伴わない、「形骸化」した文字であるのだが、決して文字ではなくなってしまったということではなく、そこに文字の「形骸」を残存させているということが、作者によって、そして作品タイトルにおいて認められている。

 

今回の展示では、本展の二人の企画者による日本語の筆跡から、一人ずつ個別にデータを抽出し、二つのパターンの(二人分の)「形骸化」した文字を生成させている。機械による文字からは、文字としてのシニフィアンは消失してしまっているが、「日本語らしいもの」というシニフィエと対をなすようなシニフィアンは未だ残存している。いずれのパターンにおいても、生成される文字は、一見したところ日本語のようであるにもかかわらず、ほんの一部を除いてはわたしたちにはそれを読解することができない。日本語を理解しない外国人がもしこれを見るならば、彼らは日本語を理解しないにしても、この文字は「日本語」であると判断するだろう。なぜならば、彼らは「日本語らしい」文字の形状のパターンについては彼らの経験に応じてそれぞれにイメージを有しているからである。

 

日本語を読むことのできる者にとって、形骸化した文字は、フレーミングの範囲によって、読解可能なものとして捉えられる段階と、読解不可能なものとして捉えられる段階という二つを推移させるものとなる。対して、日本語を読むことのできない者にとっては、前者の二つの段階に対応するいずれのフレーミングにおいても、その言語は読解不可能なままであり続ける。

こうしてみると、部分にフォーカスした日本語可読者のみが、客観的に正しい認識へと至っているように思われる。しかし、形骸化した文字が絶対的に誰にも読むことのできないものであるのかどうかということについては、未だに考察の余地が残されている。それはあくまでも、「日本語」としては誰にも読むことのできないものであり、「日本語ではない言語」として使用される可能性がそこからすべて剥奪されてしまったわけではない。あるいは、日本語可読者にとって、全体的フレーミングにおいて「日本語である(だろう)」というシニフィエを含みながらも、部分的フレーミングにおいては「日本語ではない」というその文字の特性が、まったく異なる遊戯をそこにもたらす可能性を大きくしているのではないだろうか(例えば、読解不可能なものであると知りながら読解を当てはめていくなど)。 この作品は、似ているということと不可分であるようなユーモアに彩られている。「それでないのにそれであるとわかる」可笑しみによって、本質による事象の決定を免れようとするような力を帯びている。

菅野は、本作について、人類がロゼッタストーンの読解を試みたように未来の知的生命体が本作における文字の読解を試みるという状況について言及している。そうした状況を仮定するとして、そのような読解とはいったいどのような行為であるのだろうか。それ自体遊戯でなければならないようなその読解は、高度な知的生命体にかかれば、その無意味な文字列がどのように生成されたのかというところまで、つまり人工知能による操作までをも射程に入れるようなものであったりするのだろうか。その場合、通常わたしたちが扱う意味のある文字は、操作をまぬがれたピュアなものであるということになるのだろうか。わたしたちが普段書き連ねている文字は、果たして「形骸化したもの」ではないのだろうか。 わたしたちはこの作品が備えている複数の思考の入口から任意に選択し、「形骸化する言語」をそれぞれに再開することができる。

 

山城大督《HUMAN EMOTIONS》

本作は鑑賞者にとって、二つの現在と一つの過去を有するものとして見ることができる。すなわち、「舞台上の現在」、「舞台の外の現在」、そして「映像による過去の再生」である。現在が二つに分けられるのは、鑑賞者が舞台に上がった場合、その現在を舞台の外のそれまでの現在と同じものとして考えることが困難になるからである。もちろん舞台の外から本作を鑑賞することは可能であり、鑑賞者の誰もがまずそこから鑑賞し始めるのだが、舞台の上に移動した鑑賞者は、ただたんに作品を眺める自らの位置を移動させたというだけではなく、舞台の外に位置していた場合とはまったく変わってしまった「映像や舞台上のものと自らとの関係」において、自らを再度見出さざるをえない。

 

さて、ここで、このような関係の変化が作り出される大きな要因としての二つの契機が思い浮かべられる。一つは、映像のなかの子どもたちと同じ位置に立つことができるということ、もう一つは、足の裏の床の感触が作品世界内のものとして自らに立ち現れるということである。舞台の外においても、触覚は、靴の中敷きに触れる自らの足の裏からつねに感じられてはいるのだが、それは視覚と同様に、その時点においては作品世界の外に留まっている。この点において本作が多くの他の(靴を脱いで作品内に入り込むタイプの)同様の構造を有する作品と異なっているのは、作品内に入り込むことがなくても、鑑賞者にはある映像的、あるいは演劇的な作品体験が十分に与えられるという性質を持っていること、つまり、インタラクティヴであることを絶対条件とするような、ある種の体験型インスタレーションであるという同一性を弛緩させているということである。それゆえに、舞台上においても、舞台の外においても、一方の作品体験が他方の作品体験を従属的なものと見なしたりはせず、舞台の外を一種の見物の場としてしまうことなくそこに鑑賞のレヴェルを確保することによって、ある程度の両者の近接がもたらされ、それによって両者の推移が可能となり、その推移に緊張感がもたらされる。

 

山城は、トークイベントのなかで、映像に関する普遍的なジレンマについて言及している。それは、「撮影中の撮影者に見えているもの」と「撮影された映像」とが、いかなる場合においても異なっているということである。山城は、撮影中に見えているものを現したい。それゆえに、今回はあえて、映像素材にこれまでのようには手を入れていない。さらに、鑑賞者を舞台の上へと誘導し、子どもたちと場を共有するように促している。こうしたことは、撮影中に「見えているもの」が、たんに「視覚的であるもの」だけにはとどまらないという認識のうえに決定されているように思われる。前述の、「映像や舞台上のものと自らとの関係の変化を可能にする二つの契機」は、撮影中に見えているものを事後的に再生するための必要条件として、ここで再び見いだされることとなる。

 

山城のこうした試みは、ある意味で、プラトンの『ポリティコス』や『パイドロス』におけるような、自らが最もオリジナルに近い者であるとして名乗り出るといった行為とどこか似ている。しかし、オリジナルに「最も近い」ということは、この場合、オリジナルと「同等のものである」ということとはそれでもやはり同じではなく、このような到達不可能性は、再生可能な事象(撮影された映像)と再生不可能な事象(撮影者に見えているもの)との差異を暗示している。それはつまり、ひとつの過去が、二つの現在においてどのように見出されうるかといったことにかかわっている。鑑賞者が舞台に上がり、「見聞きすることを要求する演劇」から「行為を要求する場」へと作品を変化させ、作品が、全方位的なものとなる(「目の前」から「身の回り」へ)と同時に知覚的な要素を増加させる(床との触覚)とき、事象の解像度はその限界を取り払い、もろもろの事象は待ち望まれた鮮明さを獲得することになるだろう。

 

しかしこうして明らかになるのは、「撮影中に見えているもの」と「撮影された映像によって事後的に見えるようになるもの」とは、事象の解像度を高めれば高めるほど互いの違いをますます明瞭に示すということである。この現在はいかなる場合においても過去の複製とはなりえない。反対に、現在にそれが過去の複製であるかのような外見を付与するには、過去の事象を限定し(解像度を下げ)、舞台の外の現在において為されているように、どこまでも鮮明な現在の解像度を、映像の事後的な見え方に合わせて調節するだけで十分である。オリジナルを指向することによって姿を現す到達不可能性が、鑑賞者を生きた現在へと運び、そうした現在の自立性が作者を魅了しているかのようだ。

鑑賞者は舞台上での二つの契機によって、自らを映像の中の三人の子どもたちへと重ねることができる。しかし同時に、舞台上には鑑賞者を舞台の外へと瞬間的に連れ戻すような奇妙なシークエンスが設けられている。舞台全体を捉えた映像が映し出される大きなモニターが据えられた壁の向かいの壁に、同じ映像が作品中最も小さなサイズで投影されており、その前には三体の小さな人形が並べられている。三体の人形はおそらく三人の子供に対応したものであると同時に、舞台上のサイズとは異なる次元で映像を眺める者たちでもある。「三体の人形と映像との関係」は、「舞台の外の鑑賞者と映像との関係」との一致を感じさせる。つまり鑑賞者は、まずはじめに舞台上で自らが三人の子どもたちになり、つぎに映像の中の子どもたち(自ら)を外から眺めている子どもたち(自ら)に出会うこととなるだろう。これによって鑑賞者は、二つの現在のどちらに属しているとも言い難いものとなり、舞台の外の現在を舞台上に持ち込むこととなる。このようにして両者の差異は、念入りに複数回検証されるのである。

 

村山誠

《Lathyrus odoratus L. – top view – b》

《Sunflower -ⅰ- iv- bc》

《Botech Composition 1-MV》

「無機植物相」とは、3DCGにおいて構築された植物のモデルに基づく二次元のヴィジョンを総称したものである。そのプロセスは、花々の採取にはじまり、スケッチしては諸部分に解剖し、観察を経て再び細部をスケッチするという作業を下準備とし、そのうえでCGの制作に入っていくというものである。本展示では、「無機植物相」における三つのカテゴリーのうち、村山自身によって「ボテク?アート」と呼ばれるカテゴリーから《Sunflower‐ⅰ‐bc》、《Sunflower‐ⅱ‐bc》、《Sunflower‐ⅲ‐bc》、《Sunflower‐ⅳ‐bc》の四作品が、「ボタニカル?ダイアグラム」と呼ばれるカテゴリーから《Lathyrus odoratus L. ‐top view‐b》が、そして「ボテク?コンポジション」と呼ばれるカテゴリーから《Botech Composition 1‐MV》(この作品のみ映像作品となっている)がそれぞれ出品されている。本稿では、三つのカテゴリーのうち、科学的正確さが最も重んじられているように感じられる「ボタニカル?ダイアグラム」を中心として論じることにしてみたい。

 

「無機植物相(Inorganic Flora)」は、語義通り無機的なものとして、すなわちオーガニックではないものとして提出されている。組織されていないもの、あるいは統合されていないものと言うことも可能だろう。この総称は、鑑賞者が有機的なものと無機的なものとのあいだを行き来することを表面上は禁止している。確かに、鑑賞者が自らの習慣によって、そこに有機的なものを、つまりすべての部分を統合しひとつの花を形成する生命的な働きを見出してしまうことを回避することはできないだろう。もしも本作に各部分を統合するような作用があったとしても、それは決して生命的な働きなどではなく、むしろ人工的な構造物を可能にするような外部からの作用でなければならないはずである。

 

すぐに気づかれるように、「ボタニカル?ダイアグラム」のシリーズは、いずれも建築図面、あるいは工業製品の設計図のような様相を呈している。設計図とは、各部分をどのように形作り、それらをどのように組合せて一つのものにするかということを指示するものである。しかしその一方で花は、DNAによる内部的な決定や、外部環境における限定による決定に従って、各器官を外在化させている。花がこのように工業製品の製造における場合と類似した過程を備えているにもかかわらず両者が決定的に異なっているのは、工業製品がそれ自身によっては自らを組み合わせることができないのに対して、花のほうはそれ自身によってしか自らを組み合わせることができないからである。

 

村山が「無機植物相」という総称によって高らかに宣言しているのは、ある意味で、作品のなかのイメージに相当する事物が、花であるというよりはむしろ石であり、生きてものであるというよりはむしろ死んだものであるということである。非生命的なもののなかに、比喩的に生命的なものの姿を見出すのはそれほど難しいことではない。そうではなく、村山は厳密に非生命であるもののみが持ちうるある威力を抽出しようと試みているように思われる。

 

村山は「無機植物相」に至るまでのあいだに、ボタニカル?イラストレーションとテクニカル?アートという二つの視覚的表現に出会っている。いずれも、あるひとつのものの全体を構成するすべての部分が、「部分を担う」ということを強調されながら扱われている。さらに、そうしたことはわたしたちに「精密である」という印象を持つように訴えかけている。ひとつのものが図表的に視覚化されるとき、わたしたちはそこに構造が潜んでいるということに気づくことができる。反対に、ひとつの統合されたものについて、それが構造化されているということを知るためには、その全体が静的に分割される必要があるだろう。わたしたちが事物の細部へと分け入っていくとき、事物はその構造をわたしたちに開示する。その構造から何か美的なものを受け取ることさえ可能である。つまりそれは、端的に構造美と呼ばれているものであり、さきほど「厳密に非生命であるもののみが持ちうるある威力」と述べられた当のものである(村山はブロスフェルトの写真にそのような構造美を認めている)。

「ボタニカル?ダイアグラム」では、花が、高さ、幅、奥行きという無時間的な三次元空間に置き直される。このことは、生命体を非生命化し、人間による指示の領域に置き直すという作用を伴っている。あるいは、このことは、設計図の形式の意図的な誤用または模倣といった側面からもアプローチされうる。そして、そうしたことはすべて、植物からその構造美を解き放つという目的からのもろもろの帰結となっている。すべての作品において非常に印象的なワイヤーフレームは、わたしたちに構造美の威力(あるいはその秘密や嘘)を必死に訴えかけているかのようである(しかしそれらはひとつの質を形成し、混じり合ってしまっており、混じり合ったそれらの声は決して判別されることはない)。もしかするとそれは、暗黒からの離脱であるのかもしれないし、表象における虚構への侵入であるのかもしれない。こうして作品は、このような構造美の力をいかにして受け止めるかということを鑑賞者に委任している。

 

石塚千晃《Portrait of DAUCUS CAROTA》

三種類の対象物の写真が、すべて異なる個体を被写体として、それぞれ二十五枚ずつ並べられている。そして、三種類の対象物に対応した三つの映像が同時に再生されている。三種類の対象物とは、リーフレットで説明されているように、「『野菜のニンジン』、その野生化した姿としての『ノラニンジン』、そして自然環境では存在し得ないニンジンのある姿を組織培養によって現前させた『細胞塊(カルス)』 」であるのだが、映像を見る前に、わたしたちが常識的な範囲でそれが何かを言い当てられうるのは「野菜のニンジン」に限られるだろう。写真において、「ノラニンジン」と「カルス」はその姿形の多様性を明らかに開示しているように思われるのだが、野菜のニンジンのほうは見事に均一で一様なものとなっている。

 

しかし、鑑賞者は映像を見ることによって、写真に収められている(野菜の)ニンジン以外の二つの種類の対象物もまた同じくニンジンであるのだということを知ることになる。このとき、「野菜売り場に並ぶニンジンだけがニンジンであるのではない」という、本作の意図する第一にして作者によって強調される最大の啓蒙が果たされている。

映像では三種類のニンジンに関して、人間との関係のそれぞれのあり方を確認することができる。これが第二の啓蒙である。もはや人間の手から離れてしまった「ノラニンジン」、食料として、資本として人間と互いに依存関係に置かれている「野菜のニンジン」、人工的な環境を自らの条件のひとつとする「ニンジンのカルス」といったように。

 

「ノラニンジン」は、普段人間とは直接的な接点を持たないがゆえに探されなければならず、「野菜のニンジン」は、それが野菜であるために(野菜として食されるべく購入されるものであるために)選別されなければならない。映像のなかには、写真として展示されていない、もう一種類のニンジンが登場しており、それが「野菜として栽培されたものの、野菜であるとは見なされなかった」ニンジンである。資本主義的な要請に従って、ニンジンの形状の一般性は次第に現在のものへと行き着いたのだろう。こうした一般性を満たさないニンジンが流通経路に乗りにくいということは広く知られている。このような話題は今日非常にセンセーショナルなものであり、自ずと議論をもたらすような、既に提起されていしまっている問題として、わたしたちの生活を反復している。

 

重複するようだが、多少乱暴に言うならば、本作には大きく分けて二種類の鑑賞の舞台が設けられている。ひとつは三種類の写真が比較される場であり、もうひとつは各種の写真が映像に向けられ、説明される場である。 わたしたちのよく知るニンジンが並ぶスーパーマーケットのなかで、わたしたちは「それはどのようなニンジンか」という思考を開始させることはない。しかし、それらが「野菜であったはずの」、流通しにくいニンジンと比較されるや、わたしたちの一般性への期待は後者のほうに欠陥を見出し、その効果として、ニンジンの一般性に対応する前者に対して優位を付与することになるだろう(このとき、思考の開始が、欠陥の発見となっているということに注意したい)。 これを踏まえて、三種類の写真におけるように、均質な「野菜のニンジン」が、それとはあまりにも姿の異なる「ノラニンジン」や「ニンジンのカルス」と比較される場合、それらを資本としての優劣において価値付けるといった基準はたちまちに場違いなものとなり、何か異なる基準が要請されなければならなくなるだろう。

 

三つのニンジンが、それぞれに所有している物語は、それぞれのニンジンが光学的な事実として提示されることによって切り離されてしまう。写真のイメージとは、まず「知の抽象的なイメージ」であり、知の対象としてそれぞれが関係可能なものに仕立て上げられる。そして、映像において既に、三つの対象はすべてニンジンであるということが明かされており、ニンジンであるという属性によって統合されるように関係づけられている。 こうした関係可能性によって、わたしたちはそれらを互いに比較したり、評価したりすることができるようになる。あるいはわたしたちは、それらの比較、評価を、ある意味で命じられていると言うこともできるだろう。本作に第三の啓蒙があるとするならば、それは「イメージの権力のようなものが存在する」ということを言外に知らせようとするものであるに違いない。イメージや類概念といったものは、それぞれに特異なものたちを、比較することができるまでに均質化してしまう。

 

その一方で、写真そのものの中にそうした関係可能性から逸脱するようなイメージを見出すことは可能であるのだが、本作におけるように、イメージを補足するような情報などによって、イメージの、イメージとしての強度から目をそらせるというかたちで、関係可能性のあり方に言及するということもまた可能である。それでもイメージの等質性は、再びわたしたちを牛耳ろうと試みることをやめないだろう。知の抽象的なイメージにおける権力にとって、ここでも思考は欠陥として現れ、そのことが本作において浮き彫りにされている。

 

撮影:丸尾隆一 IAMAS2002年卒(アカデミー6期生)